石の輪の中で灰が舞い上がり、まるで生き物のように渦を巻く。風に乗った灰が朝陽に照らされてキラキラと輝いている。 リノアは目を細め、その不思議な動きを見つめた。すると、風が地面を撫でるように吹き抜け、石の輪の近くで苔に覆われた土がわずかに崩れた。 まるで呼び起こされたように姿を現した一つの小さな木箱…… やがて風が止み、森が再び静寂に包まれた。霧が晴れ、朝陽が再び大地を照らしていく。 木箱の表面は粗く削られ、角が少し欠けている。素朴で無骨な作りをした木箱だ。 リノアは木箱にゆっくりと近づき、木箱を見下ろした。これはシオンの手作りで間違いない。箱の表面に小さな渦巻き模様が刻まれている。 シオンがこれを手に持って笑う姿が頭に浮かぶ。──この木箱が、ここにあるということは……。何者かの手に渡らないようにシオンが木箱を隠したことを意味するのではないか。 箱の蓋には小さな留め金があり、中に何か入っている感触がある。「シオン……開けるよ」 そう言って震える手で木箱を開けた時、朝陽が木々の隙間から差し込み、リノアの周辺を淡く照らした。 足元に小さな水たまりがある。朝露や霧の水分が地面のくぼみに集まったその水面が、まるで水鏡のように揺れている。リノアのスカーフを握る手が映り込み、血の染みが赤黒い影となって揺らめく。 リノアが水面を見つめた瞬間、水鏡が歪み、血の影が渦を巻くように動いた。その中心に映し出されたのは、笛を手に森を見上げるシオンの姿……。「シオン……」 リノアの胸に不思議な感覚が走る。シオンが教えてくれた力──自然の兆しを感じ取る星詠みの力だ。星は見えずとも、朝陽や風、そしてこの水鏡がシオンの意図を映し出している。 木箱の出現は偶然ではない。 水鏡に浮かんだシオンの姿が私に囁いたのだ──「龍の涙を守れ」と。 リノアは木箱の中をそっと覗き込んだ。折り畳まれた紙と、小さな種子が静かに横たわっている。 村の儀式で使われる種子と同じ形──しかし、どこか異質に見える。表面が光を薄く放ち、指で触れると微かな熱が伝わってくる。 リノアはそれを手のひらに載せて、じっと見つめた。 種子は小さく、掌に収まるほどだが、ずっしりとした重みが感じられる。まるで生きているかのように微かに脈動している。 これはただの種子ではない。生命の鼓動、自然の力が宿った
リノアは木箱の底に横たわっていた紙片を広げ、シオンの掠れた字に目を凝らした。乱雑な字がびっしりと並んでいる。インクが滲み、震えるような筆跡がシオンの焦りを伺わせる。 リノアは貪るように、その一行一行に目を走らせた。『龍の涙は自然の均衡を保つ力を持つ。大地の深みで脈を打ち、水の鏡に映り、風の囁きに乗る。木の根に刻まれた命のしるしだ。村の儀式はその力を引き出すためのもの――だが、それは半分しか真実を告げていない。使い方を誤れば破壊を招く。その涙は救いか、裁きか。守れ、リノア。星が沈む前に』 文章はそこで途絶え、紙の端はまるで燃え尽きたように黒ずんでいた。 リノアは自分の名が紙に書かれていたことに驚きを隠しきれなかった。シオンは私が木箱を手にすることを予見していたのだろうか……。 そう言えば、シオンがよく口にしていた言葉があった。──自然は求める心に寄り添う── 水鏡に浮かんだシオンの姿が私に囁いている──「龍の涙を守れ」と。 紙を持つ手が震え、リノアの目から涙がこぼれ落ちた。リノアの涙が紙に落ち、小さな染みを作っていく。「シオン、一人で抱え込んでいたんだね。もっと私がしっかりしていたら……」 リノアは紙を胸に抱き、地面に崩れ落ちた。 シオンは種子の力を知り、一人で守ろうとしたのだ。そして、それがシオンの命を奪うことになった。 誰かがこれを奪い取ろうとしている。一体、何の為に……。 龍の涙に秘められた未知の力──それがシオンが追い求めていたもの。 途切れた言葉の先には一体、何が書いてあったのか。リノアは種子と紙を握り締め、霧の奥を見据えた。 シオンは一人、霧深い森の奥で何かに立ち向かった。死の間際、叫び声を上げたのか、それとも静かに運命を受け入れたのか。想像するだけで胸が張り裂けそうになる。 リノアはシオンの紙をもう一度見つめた。 やはり、その先には何も書かれてはいない。空白がシオンの沈黙を映しているかのように。しかし文字はなくても、龍の涙の鼓動が私に囁いている。シオンが命を賭けた理由が、ここにあると。 シオンの遺志は自然と共にある。村を守るため、龍の涙の秘密を隠すため、彼は命を賭けたのだ。「シオン……龍の涙って何なの? 私にどうして欲しいの?」 リノアは空を見上げ、朝陽が雲の隙間から差し込む光に目を細めた。リノアの呟きが霧に溶
リノアは木箱とスカーフを手に空き地を後にした。木々の隙間から漏れる夕陽が木箱に淡い光を投げかけ、表面に刻まれた細かな模様を浮かび上がらせる。それはまるで誰かが忘れ去った秘密の鍵のように見えた。 森の小径を戻る足取りは重く、頭の中はシオンの言葉でいっぱいだった。「『龍の涙』は自然の均衡を保つ力を持つ。だが使い方を誤れば破壊を招く。その涙は救いか、裁きか」 昨日、薬草採取で森を歩いたときの異変……。森の水が減り、草が乾いて萎れていた。あの不自然な静けさ──鳥のさえずりさえ途絶え、森が息を潜めているようだった。シオンの文字に込められていた焦りは、そこから来ているのかもしれない。 幼い日に母が姿を消し、そして今、シオンが亡くなった。私はついに天涯孤独の身となってしまった。 森の奥で母が私に微笑みかけた、あの優しい笑顔。そして木漏れ陽の中、手を差し伸べてくれた温もりが今も胸の奥に焼きついている。母の声が遠くから聞こえるようだ。「リノア、大丈夫だよ」と。 シオンはいつも森で動植物を観察していた。陽が沈むまで土に触れ、葉の形をなぞりながら静かに微笑み、一つ一つ丁寧にスケッチを描いていたシオン。 村のために何かをしようと夜遅くまで灯りの下で目を輝かせていた。疲れも見せずにノートに想いを刻んでいたあの姿が思い起こされる。「シオン……。何が起こってるの?」 自然の異変とリノアの断片的な記憶が糸を手繰るように絡み合う。リノアの呟きは風に攫われ、森の奥へと消えた。 シオンの意図は、まだ掴めない。だが、この種子がただの物ではないことだけは確かだ。 私にはシオンほどの知識はない。それでも、私にも何かできることがあるのではないか。シオンが遺した言葉。そして龍の涙──それらに込められた想いを解き明かさなければならない。 夕陽が木々を血のように赤く染め、霧が徐々に薄れていく。葉の変色が一層目立ち、乾燥した草がその光景をさらに際立たせる。 やはり森は弱っている。 エレナに会おう。シオンの研究ノートを読めば、真相に辿り着く手がかりが見つかるかもしれない。 村の外れに近づく頃、夕陽が地平線に沈みかけ、茜色の光が森の輪郭を柔らかく縁取っていた。遠くで村の灯りが揺らめき、子供たちの笑い声が風に乗って届く。それは平和な響きだった。しかしリノアの胸には別の音が鳴り響いていた。
リノアは村の入り口に立ち、エレナの家へと向かった。 村の広場に差し掛かった時、鍛冶屋のカイルが炉を叩く音が響き、女たちが井戸端で洗濯物を干しているのが見えた。 普段ならリノアも挨拶を交わすところだが、今日は足早に通り過ぎた。頭の中はシオンのノートと龍の涙で埋め尽くされている。 エレナなら何か知っているはずだ。彼女はシオンの恋人であり、シオンの研究を手伝っていたのだから。 エレナの家に着いたリノアは扉を軽く叩いた。中から物音が聞こえ、エレナの声が返ってくる。 リノアは扉を開け、家の中へ入った。薬草の匂いが漂い、机の上にはシオンの研究資料やノート、乾燥した植物類が散らばっている。 エレナは薬草をすり潰しながらこちらを見た。「リノア、森はどうだった?」 エレナの落ち着き払った声を聞き、リノアは一瞬、戸惑い目を伏せた。だが、すぐに籠を床に置き、木箱とスカーフを取り出した。「エレナ、これを見て。シオンのものだよ」 エレナの手が止まり、彼女は立ち上がってリノアに近づいた。スカーフの血の染みを見た瞬間、エレナの目が鋭くなった。「血? どこで拾ったの?」「森の北側。シオンの焚き火跡があったの。そこに木箱もあって、中にこれが入ってた」 リノアは種子を差し出した。エレナはそれを手に取り、目を細めて観察した。「これ、儀式の種子と違うものだね。熱いし、光ってる。シオンが言ってたのは、これのことだったのか……」「シオンが何て言ってたの?」 リノアの声色が鋭く変わった。 エレナは種子を机に置き、目を閉じて黙り込んだ。彼女の手が微かに震えている。シオンの記憶が蘇ったのだろう。エレナの心情を察して待っていると、やがてエレナの唇が小さく動いた。「彼は『龍の涙』に何か隠された力があるのではないかと疑ってた。私には詳しく教えてくれなかったけど、とにかく危険だって警告してた」「うん。それは、この紙にも書いてあった。『誤れば破壊を招く』って。シオンはこれを守ろうとして亡くなったんじゃないかな」 リノアはそう言って、紙をエレナに手渡した。 エレナは紙をそっと受け取り、その上に刻まれたシオンの掠れた文字に目を落とした。 その瞬間、エレナの表情が硬直し、沈黙がその場を包んだ。紙を握る指先に微かな力がこもり、心の奥底で何かが揺れ動いているようだった。 部屋の中を満た
リノアはエレナの顔を見つめ、彼女が何か重要なことを知っているのではないかと感じた。シオンの死を悼むだけではない、何か深い確信がエレナの瞳の奥に隠れているように見えたのだ。 エレナは目を伏せ、静かに頷いた。「そうね。私も龍の涙を守ろうとして亡くなったんだと思う。事故にしては不自然だったし。シオンの身体は見つかったけど、落石の跡が少なくて……。誰かが証拠を隠滅したのだと思う」 やはりそうだったのか。エレナも、シオンの死が誰かの手によるものだと疑っていたのだ。今までのエレナの素振りからは、その真意を感じ取ることはできなかった。事を荒げたくなかったのかもしれない。「龍の涙を手にしようとしている人たちって、エレナ、誰のことだか分かる?」 エレナは一度首を振り、考え込むような表情を見せたが、やがて何かを思い出したかのように口を開いた。「最近、森の近くで怪しい影を見たっていう噂があった。カイルなら何か知っているかも。彼、外部の商人たちと取引することが多いから」「カイル……」 カイルの印象はあまり良くはない。カイルは自然保護や村の伝統を重んじるどころか、それらを軽んじるところがある。 村の外から持ち込まれる品々を仕入れるために、森の薬草や木材を惜しげもなく切り崩して利益に変えている。そのような姿を何度も目にしてきた。 シオンのように森を愛し、その声を聞こうとする気持ちなど、カイルは持ち合わせてはいない。 リノアの胸にカイルへの不信感が冷たく沈んだ。 それでも、怖がっているわけにはいかない。「私、シオンの遺志を継ぐと決めたの。自然を守るって」 リノアはエレナを見据えて言った。「シオンがリノアを信じていた理由が分かるよ。リノア、カイルに会うの?」 エレナは目を細め、静かに微笑んだ。 エレナの瞳の奥に宿る真剣さが、シオンの死を悼む悲しみと、リノアへの信頼を映し出している。リノアの胸の奥で何かが熱くなった。「リノア、気をつけてね。カイルはシオンの死に直接絡んでいないと思うけど、何らかの形で関わっている可能性ならあるから」 エレナは心配そうにリノアを見つめた。「私も協力するから心配しないで」 エレナの手がリノアの肩にそっと置かれる。その温もりがリノアの心に染み渡った。 リノアは慌てて目を瞬かせて、こぼれ落ちそうになった涙を誤魔化した。 一人で
リノアはエレナの家を出て村の広場へ向かった。夜が深まり、星が空に散らばっている。冷たい風がリノアの髪を揺らす。 静けさに包まれた村の広場が目の前に広がっている。鍛冶屋の炉から漏れる赤々とした光が闇を押し返し、金属を叩く鋭い音が響き渡る。火花が飛び散り、暗い夜空の下で命を持つかのように一瞬輝いた。 炉のそばで汗だくになりながら鉄を叩いているカイル。その腕には力が宿り、額には熱気が染み込んでいる。彼の動きには迷いがない。炉の炎が彼の輪郭を鮮やかに映し出していた。 リノアは足を止め、カイルの姿を見つめた。炉の熱気が顔に当たり、心臓が速く鼓動する。 カイルはただの鍛冶屋ではない。村の外部との交易を仕切る男であり、時にその取引に疑念を抱かせる存在でもあった。 リノアの胸にカイルに対する不信の影が忍び寄る。村の伝統や自然を軽視するカイルの姿はシオンの信念とは真逆のものだ。 それでも真実を追う決意がリノアの背中を押す。カイルと向き合わなければならない。たとえそれが危険を伴うものだとしても。「カイル、今いい?」 リノアは鍛冶屋の入り口で声を掛けた。夜の闇に溶け込むようなその声に、鍛冶場の音が一瞬静まる。 カイルがゆっくりと顔を上げた。炉の赤い光が彼の顔を照らし、汗が額から滴り落ちている。重たそうな手を鉄槌から離し、その鋭い目がリノアをとらえた。「お前か、リノア。こんな時間に珍しいな。何か用か?」 カイルの声は穏やかだが、どこか探るような響きがあった。 リノアは一瞬、躊躇したが、リノアは籠から枯れた葉を取り出し、カイルに差し出した。「これ、森で見つけたの。最近、草が乾いてて、木も弱ってる。シオンの死と関係あるんじゃないかって思って」 リノアの声はかすかに震えていたが、その目には強い意思が宿っている。 カイルは葉を受け取り、指で軽く揉んで感触を確かめた。「確かに変だな。乾いて脆い。だが、シオンの死と何の関係があるんだ? あいつは落石で死んだって話だろ」 リノアは息をのみ、目を細めてカイルを見つめた。「本当にそう思う? シオンは自然のことを調べていた。誰かに邪魔されたんじゃないかな」 カイルは炉に視線を戻すと、無言のまま鉄を叩き始めた。平静を装っているが、リノアはカイルの目が一瞬、鋭くなったのを見逃さなかった。 金属を打つ音が暗い夜空に響き、火
「俺には関係ねえよ」 そう言い切るカイルの声は低く、わずかに硬さを帯びていた。「シオンは妙なことに首を突っ込んでたんだ。自然がどうとか、種子がどうとかな」 言葉を切り、炉を見つめるカイル。その炎の揺らぎにリノアの不信感が重なった。「確かにあいつが死ぬ前、森で誰かと会ってたって話は聞いたよ」「誰と? 何をしてたの?」 問い詰めるリノアの声にカイルは目を細め、短く首を振った。「森の奥で何かを企んでる奴らだ」 カイルはそう口にすると、視線を外し、再び火をかき混ぜ始めた。「シオンが何か渡したか、奪われたか、俺は詳しくは知らねぇ」 リノアの胸に冷たく鋭いものが突き刺さる。しかし彼女は更に一歩踏み込んだ。「狙っているものって、『龍の涙』じゃない?」 その名を口にした瞬間、カイルの目が驚きの色に揺れた。炉の火をかき混ぜる手に力が込められ、硬く握りしめられた鉄棒が微かに軋む音を立てた。 飛び散る火花が暗闇を切り裂き、一瞬だけリノアの顔を浮かび上がらせた。 その沈黙は重く、鋭利な刃物のように二人の間に降り立ち、言葉以上に深い意味を宿した。「お前、何を言ってるんだ? 『龍の涙』って儀式に使われる種子だろ。あんなものが何だって言うんだ? そんな大層なもんじゃねえだろ」 カイルはため息をつき、炉の近くで金槌を手に取り、その柄を握りしめた。カイルの指が強く食い込み、木の柄がわずかに軋む音を立てた。 カイルがリノアを冷たい目で見つめる。 リノアはさらに問いただそうとしたが、カイルが先に口を開いた。「シオンがそれに絡んだなら、自業自得だろ」「自業自得じゃない! シオンは村を守ろうとしたんだよ!」 リノアの声が鋭く響き渡る。 カイルは目を伏せ、金槌を静かに炉の横に置き、落ち着き払った声で言った。「お前、深入りすんなよ。シオンみたいになりたくなければな」 その言葉にリノアは息を呑んだ。カイルの目は冷たく、警告の色が濃い。リノアは枯れた葉を籠に戻し、後ずさった。「ありがとう、カイル。気をつけるよ」 リノアは短く答え、鍛冶屋を後にした。夜風が鋭く吹き抜け、彼女の髪を揺らす。暗い空に散らばる星々が、どこか遠くから静かに見守っているようだった。 村の灯りが遠くに見える頃、リノアは足を止め、森の方向を見た。木々が黒い影となって揺れ、風がざわめいている。 冷
リノアは村の広場に集まった人々の中、静かに立ち尽くしていた。朝霧が地面を覆い、湿った土の匂いが鼻腔を満たす。足元の草は冷たく、粗末な靴に水滴が染み込んで彼女の足を冷やしていた。 空はまだ薄暗く、朝陽が霧の向こうでぼんやりと輪郭を描いている。 広場の中央には、儀式のための祭壇が設けられていた。太いオークの枝が円形に組まれ、その内側に平たい石が積み上げられた簡素なものだ。だが、その素朴さの中にも、長い年月を経た重みが感じられた。 祭壇の頂上には、先祖代々受け継がれてきた青銅の器が置かれている。器は古びて緑青が浮いており、表面には龍が空を舞う姿や星々が連なる模様など、細かな彫刻が施されている。 リノアはその器を見つめ、シオンの不在に心を痛めた。この儀式を行うのは、いつもシオンだった。シオンが村人たちの前で自然との絆を呼び起こす姿が思い起こされる。 リノアは深く息を仕込み、祭壇に目を移した。 器の縁から微かな水滴が、ぽつりぽつりと落ち、祭壇の冷たい石を静かに濡らしている。その音が張り詰めた空気の中に小さな波紋を生むようだった。 祭壇の上に置かれた器には澄み切った水が並々と張られ、朝陽の最後の光がその表面で踊っている。光の破片が水面を駆け巡り、まるで器自体が生きているようだ。 水面は鏡のように澄み渡り、霧の白と空の青を映しながら、どこか別の世界と繋がっているかのような気配を漂わせている。その奥底で何かが眠り、あるいは目を覚まそうとしている――そんな錯覚を覚えた。 風が頬をかすめ、器の水面にかすかな細波を生む。その小さな動き一つ一つが過去の声となり、私に何かを語りかけている。この水面の鼓動を感じ取らなければならない。 シオンほどではないにしても、私にもできることがあるはずだ。リノアはそう信じていた。シオンが命をかけて大切にしたこの村と自然を守りたい。その純粋な思いだけが、今の彼女を支えている。 村人たちのざわめきが耳に届く。年寄りたちの呟き、囁き合う声……、村人たちの視線が私に注がれている。 村人たちは、本当にシオンの代わりを務めることができるのかと思いながら、私を見ているのだ。重い視線が肩にのしかかる。 しかし、その喧騒は、どこか遠くで鳴っているように感じられた。まるで現実から切り離され、リノアだけが異なる次元に取り残されたかのように。「守れ、
リノアの眉がかすかに動く。クラウディアはゆっくりと頷いた。「ああ、だがその意味を完全に解き明かした者はいない。ただ、私が幼かった頃、一度だけ森が弱ったことがあった。その時、人々は村を護るため儀式を行い、結果的に森は持ち直した。しかし……今回の異変はあの時とは何かが違う。より深い、より根源的な力が関わっているような気がしてならない」 クラウディアの言葉は広場の静寂の中に染み渡り、リノアとエレナの背筋を冷たいものが這うように震わせた。「根源的な力?」 リノアの問いかけに、クラウディアの表情が一瞬だけ険しくなった。彼女は低く静かな声で応えた。「そうだ。生命力を凌駕した、もっと古く深い力……」 クラウディアの視線が遠くの森へと向けられる。その瞳には、一種の畏敬と懸念が混ざり合っていた。「森が泣く──その時、私たちは選ばなければならない。自然と調和する道を進むのか、それとも破壊の道を辿るのか」 クラウディアの言葉に込められた重みが、リノアとエレナの胸に深く響いた。「つまり、その『根源的な力』が異変の原因かもしれないということですか?」 エレナが小さく息をつき、慎重に口を開く。「恐らくな」 クラウディアは一瞬黙った後、ゆっくりと頷いた。「私たちはそれを見つけます。森の声を聞き、その答えを必ず探し出してみせます」 そう言って、リノアはエレナと目を合わせた。「シオンの死がその始まりなら、お前たちが見つけるしかない。シオンと関係の深い、お前たちなら、きっと遣り遂げることができるだろう。リノア、エレナ、私はお前たちの勇気を信じている」 クラウディアは微笑みながら二人の決意を受け止めるように言葉を返すと、静かにその場を後にした。クラウディアの背中が霧に溶け、広場の静寂と共に消えていく。 森の奥から風が吹き抜け、冷たい空気が二人の頬を撫でて行った。まるで森そのものがリノアとエレナの決意を確かめるように。「根源的なものって何だろう……」 リノアがふと呟いた。その言葉は空気に溶けるように静かだった。「森の奥に行ってみようか。シオンがいた場所に何か手がかりが残っているかもしれない」 エレナは広場の端に目を移した。 森の奥深くに足を踏み入れることは殆どなかった。森の植物は十分に育ち、薬草を採るにも奥まで入り込む必要はなかったからだ。行く人と言えば、森
村人たちとの遣り取りを遠くから眺めていたクラウディアがリノアとエレナの前に歩み寄り、若者たちに向けて口を開いた。「よしなさい。二人を責めて何の意味がある。儀式は終わったんだ。もう帰りなさい」 言葉は穏やかだが、その言葉には威厳が含まれている。反論できる者などいるはずはない。村人たちは一礼して、その場を去った。 広場に漂っていた重苦しい空気が徐々に解けていく。夜風が頬を撫で、静けさが戻った。「リノア、エレナ。みんな不安で仕方がないんだよ。許してやっておくれ」 クラウディアはリノアとエレナに向き直り、優しい笑みを浮かべた。 クラウディアの言葉にリノアは胸に抱えた緊張が少し和らぐのを感じた。「私たち、『龍の涙』の謎を探ろうと考えています」 リノアはクラウディアの目を真っ直ぐに見据えながら言葉を放った。 クラウディアの鋭い瞳がリノアを捉えた。その瞳には何かを測るような光が宿っている。短い沈黙の後、クラウディアは静かに口を開いた。「覚悟はあるのかい?『龍の涙』には、ただの力ではないものが宿るとされる。命を懸けることになるかもしれないよ」 リノアとエレナは互いに目を合わせ、力強く頷いた。「森が弱ってる。私、感じるの。何か悪いことが起きようとしてるって」 リノアの言葉を聞いたクラウディアは静かに目を閉じ、長く思案するように黙り込んだ。その後、彼女はゆっくりと目を開け、視線を祭壇へと移した。「森の異変には気づいている。ここ最近、長老たちの間でも議論が絶えなかった……。だが、お前たちがその謎に迫る意思があるならば、私は止めるつもりはない。ただし、その先にある真実が優しいものとは限らないことを決して忘れるんじゃないよ」 長老たち……。長老は各、村に一人しか存在しない。ということは他の村にも異変が起きているということだ。「クラウディアさん、何か知っているのですか? 昔の話でも良いから教えて頂けませんか」 リノアはクラウディアを真っすぐに見据えて言った。 クラウディアは一瞬、黙った後、低く落ち着いた声で語り始めた。「古い言い伝えにはこうある。『森が鳴く時、世界の均衡が揺らぐ』と」「森が……鳴く?」
「儀式は終わったけど、みんな落ち着かないね」 エレナがリノアの肩に触れて言った。「エレナ……。皆の気持ち、私にも分かる気がする。私も何だか元気になれなくて。皆に安心してもらう為には、私がもっとしっかりしてなきゃいけないのに」 リノアの声には、焦りの感情が滲んでいる。「リノア。まだ始まったばかりよ。リノアが前を向いているところを皆はちゃんと見ているから、村の皆も力を貸してくれるはずよ」 そう言ってエレナは優しく微笑んで、リノアの肩に触れた手に少し力を込めた。「ありがとう、エレナ」 リノアの笑顔を見て、エレナが頷いて応えた。 心の中には、まだ迷いが残っている。しかしエレナの言葉に少し救われた気がした。一人で背負い込む必要はない。 リノアは心を落ち着かせようと思い、大きく息を吸って視線を広場から夜空へと向けた。 瞬く星々の光がシオンとの思い出を呼び起こす。 シオンならきっと、こうやって村全体が一つになれる方法を模索したはずだ。リノアはシオンの背中を思い出しながら、夜空を見つめ続けた。──このままじゃ収拾がつかなくなる。私たちで何か始めないと。 視線を落とし、思いつめた顔をして地面を見つめていると、突然、大きな声が広場に響き渡った。「祈ったって何も変わらねえよ。川の水が減っていたのを見ただろ!」 声の主はヴィクターだ。彼の勢いある言葉に子供たちの足が止まり、母親たちは不安な顔で若者たちを見つめた。広場に緊張が走る。「シオンが死んでから何か様子が変なんだよ。おい。リノア、エレナ、お前ら何か知っているんじゃないのか」 ヴィクターの鋭い視線がリノアを捉える。その声には、不安、疑念、そして怒りが入り混じっている。 何か話さなければならない。そう思えば思うほど、言葉は喉の奥に引っ掛かって出てこない。ヴィクターの威圧的な態度に、リノアはその場に立ち尽くした。 シオンの死と森の異変が、ここまで皆を追い詰めているなんて……。 張り詰めた雰囲気の中、エレナが一歩前に出た。「落ち着いて。何ができるのか、私たちも考えているところなの」 エレナの穏やかで落ち着いた声が、緊迫した空気の流れを変えていく。 村人たちの視線がエレナに移る。 エレナに続いて、リノアも一歩前に出た。「私たち、森を守りたいと思ってる。だけど、まだ原因が分からないの」 リノア
リノアとエレナの衣装の美しさは他の村人と比べて際立っている。ドレスは精霊の祝祭を象徴する金色と赤色で彩られ、裾には様々な精霊を模した刺繍が施されている。髪は金色のリボンで束ねられ、花冠のように小さな花々が飾られていた。 今日は彼女たちが祭りの象徴なのだ。 広場のあちこちにテーブルが並べられ、村の味を伝える料理が山盛りになっている。パンの香ばしい匂いや果実の甘い香りが漂う中、果実酒の瓶が次々と開けられ、グラスが楽しげに揺れる。村人たちは料理を囲みながら冗談を言い合い、そして大きな声で笑い、時には昔話に花を咲かせた。 その中を元気いっぱいに駆け回る子どもたち。一息つく間もなく食べ物を手に取って口に頬張っては、満面の笑みを浮かべている。はしゃぎすぎた子どもが転んでも、すぐに立ち上がって走り回るその姿は微笑ましくもある。 笛の音色や太鼓のリズムに合わせて村人たちが身体を動かす。踊るだけではなく歌い出す者も現れ、広場の熱気がさらに高まった。 夜空の下、揺れる灯りが照らし出すのは、満ち足りた笑顔と一体感に包まれた村の光景だった。 広場の片隅で、リノアは村人たちの動きをじっと見つめた。皆、笑顔を浮かべている。しかし、その表情にはどこか張り詰めたものがあると感じた。明るく振る舞ってはいるが、誰もが心のどこかでシオンの死を引きずっているのだ。悲しみを抱えながらも明るく振る舞うその姿は健気でありながらもどこか痛くもある。 これではシオンも心の底から喜ぶことはできないだろう。「シオンの奴、祭りに参加できなくて残念に思ってるだろうな。どうして突然、死んでしまったのかね」 年配の男性、マティアスが果実酒を飲みながら、近くの友人に言った。「本当にな。でも、あれほどまでに祭りを望んでいたんだ。シオンの分も楽しまなきゃ」 友人が答えた。 シオンの親友で村のパン屋を営むマルコは、祭りのテーブルに村一番のパンを並べていた。彼も笑顔で人々にパンを配りながらも、心のどこかでシオンの不在を感じているようだった。 若者たちのグループでは、アリシアが陽気に一人で踊っていた。アリシアは私の幼い頃からの親友だ。「アリシア、その踊り、素敵だね。シオンが見ていたら喜んでたと思うよ」 友人の一人が言った。「ありがとう。シオンがいなくなって寂しいけど、悲しむ姿を見せたくないの。前を向いて
太陽の光が村を柔らかく照らす中、広場には巨大な樹木が描かれた布が掲げられ、その周りには花や果実が積み上げられている。陽光は色彩豊かな花弁や果実の表面を照らし、まるで自然そのものが祝福を捧げているかのようだった。『精霊の祝祭』は一年に一度、村を挙げて行われる。過去を継承し、想いと共に未来を託す、大切な祭りだ。 祭りの音楽が始まると、風情あふれる旋律が空気を震わせた。哀愁漂う笛の音色や打楽器の軽快なリズム、清涼感のある木管の楽器が一つになり、村全体を包み込んでいく。 その音楽は村の伝統と未来への希望を内包したものだ。 笛の音が高らかに響き渡ると、村の伝統的な舞である『精霊の舞』が始まった。笛の音色に合わせて、村人たちが一斉に踊り出す。子どもから老人まで誰もが知るこの舞は自然への恩恵を表現し、世代を超えて受け継がれてきたものだ。 リノアは舞いを見つめながら、心の中でシオンと語りかけた。──シオンが守りたかったこの村の伝統、今年もこうして続いているよ。私も、できることをしていくから…… 村の男たちは、粗く織られた長めの上着と膝丈の刺繍が施された麻のズボンをまとい、力強く地に足を踏みしめて伝統の舞を披露している。踊りや歌を通して村の歴史を語り継ぎ、自然への敬意を示しているのだ。 赤や青の色鮮やかな帯が風景に溶け込み、印象深い存在感を放っている。 女性たちの衣装は男性と比べ、大胆さは影を薄めているが、反対に色彩と細部で際立っている。レースや刺繍が施された服は動きに合わせて軽やかに揺れ、花が咲いているかのように華やかだ。 手元にはフリンジや刺繍、巧みに編み込まれた髪には花やリボン、胸元には金や銀、ブロンズのネックレスが優雅に輝き、全身が優雅に彩られている。 衣装を太陽の光の下で輝かせることで、自然の恵みに感謝の心を表しているのだ。「リノア、シオンの代わりをよくやってるね」 クラウディアの温かな笑顔と落ち着いた声が、リノアの心に僅かながら安心を届ける。クラウディアはこの村の長老だ。「ありがとう、クラウディアさん。兄の代わりが果たせるのか少し不安だけどね」 リノアは正直に答えた。 クラウディアは他の村から嫁いできた。長い年月を掛けて村人たちからの信頼を勝ち取り、長老の座に就いている。 この村の人たちは個性豊かな面々が揃っており、長く生きて来たから
村人たちのざわめきがやがて風の音のように薄れ始め、やがて静けさが広場に満ちると、リノアはゆっくりと小さな布包みを取り出した。包みを解く手が微かに震えている。 そこに現れたのは一粒の種子だ。それは森で見つけた不思議な種子とは異なり、淡く光るわけでもなければ、熱を帯びるわけでもない。 祭壇に捧げるための素朴な種子だ。その素朴さが儀式の長い伝統と村の歴史を象徴している。 リノアは種子をそっと摘んで、水が張られた青銅の器へと落とした。器の水面に静かな波紋が広がり、水が微かに揺れる。太陽の光がその波紋に反射し、祭壇の周りに小さな光の輪を作り出した。 息を呑んで見守る村人たち。静けさが辺りを包み込んでいく。 水面に浮かぶ種子を見つめながら、リノアはシオンの言葉を思い出した。「『龍の涙』は自然の均衡を保つ力を持つ。だが、誤れば破壊を招く」 この言葉が指す意味は何なのか。私たちはそれを知らなければならない。 クラウディアが杖を地面に突き、低く厳かな声で祈りを始めた。「自然よ、我々に恵みを。森よ、我々を守り給え。古の力よ、我々に力を」 クラウディアの声が広場に響き渡り、村人たちが次々に手を合わせ、祈りの言葉を口にした。 その場の空気は緊張と期待に満ち、何か大きな変化が訪れようとしている感覚を漂わせている。 リノアとエレナも目を閉じて祈りを捧げた。二人の祈りの言葉が風に溶け、村人の祈りと重なり合う。 私たちを良く思ってくれている人たちもいる。私は一人ではない。 リノアは目を開け、祭壇の前で背筋を伸ばし、正面を見据えた。 クラウディアが二人を見つめ、杖を地面に突いて言った。「儀式を終えよう。リノア、エレナ。誓いの言葉を」 リノアは深く息を吸い込み、エレナと呼吸を合わせ、一緒に言葉を紡いだ。「我らは誓う。自然への敬意を忘れず、この村と森を守り抜くことを。先人たちの想いを受け継ぎ、未来に光を繋げます」 その声が静けさに満ちた広場に響き渡る中、村人たちは一斉にこうべを垂れた。 その仕草は儀式への敬意が感じられる。しかし、それは表向きの姿であり、本心は別にある。心の奥底に潜む疑念は、そう簡単には拭いきれるものではない。 静寂の中、風がそっと吹き抜け、朝霧がゆっくりと薄れて行った。霧が広場を低く漂いながら動き、周囲の木々がその風に応じてかすかに揺れる。
リノアはエレナを探しながら集団に目を走らせ、村人たちの表情を一人ひとり観察した。顔の表情で大体、察しは付く。 私たちのことを良く思っていない人たちは、頬を上げて笑っているように見せていても目は笑っていない。 エレナは広場の端に立っていた。その落ち着いた姿は不思議と彼女を周囲から浮き上がらせる。喧騒の中でもエレナの存在だけが際立ち、時間がエレナの周りだけ遅れて流れているかのように見える。 若者がエレナに近づき、耳元に顔を近づけた。儀式に参加するという予想外の知らせを聞いたエレナは一体、どのような反応を示すのだろうか。 リノアはその様子を見つめながら、役割を託された日のことを思い出していた。私にその役割を担う力があるのか、村人たちの期待を裏切ることになるのではないか。不安が胸を締め付けた。 一瞬、驚きの表情を見せたエレナは、すぐにこちらをまっすぐに見つめ返し、静かに、そして力強く頷いた。揺るぎない覚悟が垣間見える。 リノアはクラウディアの横顔に目を向けた。この村に何か大きな危険が迫っていることをクラウディアは既に察しているのだろう。きっと私たちの為を思っての行動だ。一人より二人の方が安全だと思って……。 エレナが近づいてくる間、リノアは祭壇の前で佇みながら、村人たちの視線を背中に感じた。ざわめきが背後で広がり、断片的な声が耳に届く。「あの二人がシオンの代わりか……」 その声は疑念と不信が入り混じったものだ。中には蔑んだ目を向ける者もいる。 エレナが隣に立ち、リノアはエレナと視線を交わした後、正面を向いた。そのわずかな仕草だけで、心の奥底で意思が通じ合っていることが感じ取れる。言葉は必要ではない。 肌に貼りつく感覚を覚える中、リノアは手に力を込めた。これから二人で村を守って行かなければならない。 村人たちのざわめきが次第に強まり、広場を覆い始める。「シオンが死んでから森がおかしくなったんだ。何かの呪いじゃないのか?」「森が弱ってるって聞いたが、本当なのか? 木が枯れるなんて聞いたことがないぞ」 村人たちの不安が波のように広がり、次第に動揺へと変わった。 それでもリノアとエレナは祭壇の前にまっすぐ立ち、揺るぎない視線を前方に向け続けた。私たちが動揺するわけにはいかない。 村人たちのざわめきが風のように流れる中、リノアとエレナの立ち姿が、
儀式が始まろうというこの大切な瞬間でさえ、カイルの存在はリノアの心をかき乱す。 その鋭い視線に縛られるように、リノアはその場に立ち尽くした。 カイルは自然を軽んじ、村の伝統に対して無頓着な男だ。その態度は昔から私たちに不信感を抱かせていた。シオンの死や森の異変についても、彼が何かを知っているのではないかという思いが私やエレナの中に根強く残っている。 あのカイルの態度……。間違いない。カイルは何かを知っている。 昨夜のカイルの言葉が不気味な残響となって脳裏に蘇る。「死の直前、シオンは森で誰かと会っていた」 リノアの胸の内で一つの結論が形を成した。シオンは誰かに殺されたのだと。 村人たちがゆっくりと祭壇の周りに集まり始め、厳かな雰囲気に包まれた。 子供たちは母親のスカートの裾をぎゅっと握りしめ、若者たちは一つに固まり身を寄せ合っている。不安な表情を見せていないのは老人くらいなものだ。 老人たちは杖を地面に突き、どっしりとした姿勢で祭壇を見守っている。彼らの視線は、どこか揺るぎない信念を映し出していた。 背中に集まる無数の視線を感じながら、リノアは祭壇に目を落とした。 例年なら、ここでの儀式は自然への感謝を捧げるものだった。だが今年は違う。シオンの死が村に暗い影を落とし、森の異変が人々の心をざわつかせている。 村の長であるクラウディアが、ゆっくりと杖をつきながら祭壇に向かった。霧が白髪をかすかに濡らし、深く刻まれた皺が長い年月を思わせる。一歩、歩く度に杖が床を叩く音が響き渡り、広場を覆う静けさを一層引き締めた。 クラウディアの目はどこか遠くを見つめ、厳粛な空気をまとっている。その威厳に満ちた姿に村人の視線が自然と吸い寄せられた。 祭壇の前で立ち止まったクラウディアは、杖を強く地面に突いた後、村人たちを見回した。「皆、集まってくれたことに感謝する。自然は我々を育み、守ってきた。その恩恵に感謝し、共に森を守り、大地と調和して生きることを誓おう。今日、我々は自然に祈りを捧げ、森の恵みを願う」 クラウディアの声は低く、霧に溶けるように広がっていき、周囲からざわめきを消し去った。静寂が広場を支配する。 リノアはクラウディアの隣に立ち、青銅の器を見下ろした。器の水面が微かに揺れ、朝陽の光が彼女の目に鋭く差し込む。 シオンの死後、クラウディアから
リノアは村の広場に集まった人々の中、静かに立ち尽くしていた。朝霧が地面を覆い、湿った土の匂いが鼻腔を満たす。足元の草は冷たく、粗末な靴に水滴が染み込んで彼女の足を冷やしていた。 空はまだ薄暗く、朝陽が霧の向こうでぼんやりと輪郭を描いている。 広場の中央には、儀式のための祭壇が設けられていた。太いオークの枝が円形に組まれ、その内側に平たい石が積み上げられた簡素なものだ。だが、その素朴さの中にも、長い年月を経た重みが感じられた。 祭壇の頂上には、先祖代々受け継がれてきた青銅の器が置かれている。器は古びて緑青が浮いており、表面には龍が空を舞う姿や星々が連なる模様など、細かな彫刻が施されている。 リノアはその器を見つめ、シオンの不在に心を痛めた。この儀式を行うのは、いつもシオンだった。シオンが村人たちの前で自然との絆を呼び起こす姿が思い起こされる。 リノアは深く息を仕込み、祭壇に目を移した。 器の縁から微かな水滴が、ぽつりぽつりと落ち、祭壇の冷たい石を静かに濡らしている。その音が張り詰めた空気の中に小さな波紋を生むようだった。 祭壇の上に置かれた器には澄み切った水が並々と張られ、朝陽の最後の光がその表面で踊っている。光の破片が水面を駆け巡り、まるで器自体が生きているようだ。 水面は鏡のように澄み渡り、霧の白と空の青を映しながら、どこか別の世界と繋がっているかのような気配を漂わせている。その奥底で何かが眠り、あるいは目を覚まそうとしている――そんな錯覚を覚えた。 風が頬をかすめ、器の水面にかすかな細波を生む。その小さな動き一つ一つが過去の声となり、私に何かを語りかけている。この水面の鼓動を感じ取らなければならない。 シオンほどではないにしても、私にもできることがあるはずだ。リノアはそう信じていた。シオンが命をかけて大切にしたこの村と自然を守りたい。その純粋な思いだけが、今の彼女を支えている。 村人たちのざわめきが耳に届く。年寄りたちの呟き、囁き合う声……、村人たちの視線が私に注がれている。 村人たちは、本当にシオンの代わりを務めることができるのかと思いながら、私を見ているのだ。重い視線が肩にのしかかる。 しかし、その喧騒は、どこか遠くで鳴っているように感じられた。まるで現実から切り離され、リノアだけが異なる次元に取り残されたかのように。「守れ、